097)名前
「…ヴァンデスデルカ」
かつて呼び慣れていた名を呼ぶ。
いつからこの名を呼ばなくなったのか。
「何でしょう。ガイラルディア様」
そして俺自身の本名も、いつからか呼ばれなくなった。
もう『いつからか』なんて覚えちゃいない。
例え覚えていたとしても、今となっては遠い遠い過去の話だ。
今の俺たちは、偽名が本名になりつつある。
ヴァンデスデルカはヴァン・グランツ。
ガイラルディアはガイ・セシル。
この名が馴染んでしまったほど、時は流れたと言うことだった。
「いや…ただ本名を呼んでみたかっただけさ。言わないと、忘れちまいそうで…」
時々、ファブレ家にやってくるヴァンを呼びたかった。
けど、それが出来る間柄ではない。
俺はただの使用人。
ヴァンは神託の盾騎士団の主席総長。国から信頼を得ている。
身分の差、というヤツ。
「それだけ、時が流れてしまったということです」
「まあな。アンタも俺も、大人になっちまったしな」
「ですが大人になったからこそ、できるものがあります」
「何だよ?」
「……復讐です」
「…そう…だったな。その為に、自分を偽っているんだったな」
俺とヴァンと。
幼き日に誓ったこと。
いつか、同じ思いをさせてやる―と。
そのために、唯一残った名前までも捨てたんだった。
「その時が来るまで、お前の名前を忘れないようにしないとな」
「私も、お忘れせぬように致します」
「約束だ…ヴァンデスデルカ」
「お約束致します、ガイラルディア様」
ゆっくりと目を閉じ、重なって行く唇に名前を乗せる。
ヴァンデスデルカ。
その名を忘れぬよう、忘れられないよう。
今は言わぬよう、いつか言えるよう。
温もりとともに、刻んだ。